「ぼくらのバラード」 1-5 まつりママ登場

 まつりの家。大豪邸だ。

 来るたびに圧倒される。初めて来たときには、めまいがしたっけ。高い黒壁に囲まれて、正面に車寄せ。

 まつりが「こっち」と言って、通用門から入る。大門を開けるのが手間だからだ。内側でロックを外してもらう必要がある。

 なだらかなスロープを通って玄関へ。ここだけで、僕の家の居間ぐらいある。廊下を二回曲がってスタジオだ。

 スタジオって!

 まつりのお母さんが声楽家で、レッスン用の部屋なのだが、今はほとんど娘が使っている。ピカピカのピアノ。電子オルガンにシンセ。アンプやスピーカー。カラオケセットまである。もちろん防音は完璧。

 まつりがピアノの前に座って言った。

「何か飲む?」

「ワイン」

「本気にするよ。ママが聞いたら『私も付き合うわ』とか言いかねない」

「ごめんごめん。うそうそ。だいじょうぶ、喉、渇いてない」

 いいタイミングだと思い、聞いてみた。

「ねえ、まつり。どうして? 二人で合わしたことなんて、ないじゃないか。うまくやれるかどうか。自信がないし」

 まつりが僕を見る。すぐに視線をそらして、磨き上げたピアノの蓋を眺めた。なかなか返事をしない。沈黙。

「えっと」

 根負けする。何か言わなきゃ。そのタイミングで、まつりがたたみかけてきた。

「だって、ヒカルと演りたかったんだもん。一度は二人で。いやなの? 私とじゃ、だめなの?」

 いきなり来た。大きな瞳に涙が溢れてくる。ピアノの上に雫が落ちる。濡れた目で、僕を見つめる。

「あのさ」

 彼女の涙に抗える男子はいない。

 僕を除いて。

 僕は知っている。彼女は女優のように「スタート」の合図で、涙を流すことができるのだ。

「私、みゆきさんの『化粧』とか『ファイト』の歌詞を思えば、いつでも泣ける」

 この涙に、多くの同級生や先輩がだまされてきた。近くでそれを見てきたのは、僕だ。

「まじめな話。ストリートって言われても」

 涙に抗う。勇気を出した言った。

 突然、スタジオの防音仕様の重い扉が開いた。

「まつり、ヒカル君が来てるの?」

 彼女のママが入って来た。ステージ衣装のようなブルーのドレス。これが普段着なのだ。泣いているまつりを見る。

「あら、どうしたの」

 まつりが顔を手で覆っている。ママが非難の目を、僕に向けた。

「なに、ヒカル君、まつりを泣かせたの?」

「えー、いや、そんなつもりは」

「お願いよ。まつりはヒカル君が、そばにいれば大丈夫って。いつも言ってるの。だから、娘を泣かせるようなことしないでね」

「はあ」

「二人は運命共同体なのよ」

 いやいや。お母さんがそんなこと言うと、すごく重い意味になります。

 まつりが舌を出した。僕は見逃さなかった。

「まつり、高校生の男女が、密室で二人になってはいけません。ドアを開けておくか、モニターカメラをオンにしておきなさい」

「はい、ごめんなさい」

「ワインなら付き合うわよ」

 まつりママが僕に言った。

「あ、いや、とんでもないです」

 高校生ですよ、僕。

 まつりママは「じゃあ」と手を振り、ドレスの皺を気にしながら出て行く。扉は閉めていった。

「えっと」

 僕が言うと、まつりが「えへへ」と笑った。

「まず、確かめておきたいんだけど」

「うん、何かな、ヒカルくん」

「この部屋の会話って、モニターできる?」

「そうだよ。お弟子さんのレッスンを、ママが部屋で聴けるようになってる。最初はマイクだけだったけど、後でカメラも追加した」

「そうなんだ……」

「そう。だからね。ヒカルがここでエッチな動画を見て、なんかゴソゴソやってたら」

「しないよ。そんなこと」

「ヒカル。一度聞こうと思ってたんだ。そんなことしないの?」

「し、しないよ」

「うそ。エッチな動画、見ない? DVDとか持ってないの?」

「見ないし、持ってない」

「えー、そうなんだ。あ、まさか」

「まさか、なんだよ」

「まさか、私で、ゴソゴソしたり」

「まつり、いいかげんにしなよ。てか、これ、ママが聞いてるよね」

「あ、そだね、あはは」 

 まったくこの母子は。呆れたけれど、すでに彼女のペースですべてが進んでいた。

 彼女と路上ライブ、やろう。僕は決めていた。楽しいかも知れない。

 何と言っても、五月女まつりは学園のアイドルなのだ。作戦に乗った。

 ただ、来週は期末テストだ。勉強しないといけない。僕の場合、中間テストの結果が悪かったので、ヤバい。

 練習のスケジュールを決めて、家に帰った。