まつりの家。大豪邸だ。
来るたびに圧倒される。初めて来たときには、めまいがしたっけ。高い黒壁に囲まれて、正面に車寄せ。
まつりが「こっち」と言って、通用門から入る。大門を開けるのが手間だからだ。内側でロックを外してもらう必要がある。
なだらかなスロープを通って玄関へ。ここだけで、僕の家の居間ぐらいある。廊下を二回曲がってスタジオだ。
スタジオって!
まつりのお母さんが声楽家で、レッスン用の部屋なのだが、今はほとんど娘が使っている。ピカピカのピアノ。電子オルガンにシンセ。アンプやスピーカー。カラオケセットまである。もちろん防音は完璧。
まつりがピアノの前に座って言った。
「何か飲む?」
「ワイン」
「本気にするよ。ママが聞いたら『私も付き合うわ』とか言いかねない」
「ごめんごめん。うそうそ。だいじょうぶ、喉、渇いてない」
いいタイミングだと思い、聞いてみた。
「ねえ、まつり。どうして? 二人で合わしたことなんて、ないじゃないか。うまくやれるかどうか。自信がないし」
まつりが僕を見る。すぐに視線をそらして、磨き上げたピアノの蓋を眺めた。なかなか返事をしない。沈黙。
「えっと」
根負けする。何か言わなきゃ。そのタイミングで、まつりがたたみかけてきた。
「だって、ヒカルと演りたかったんだもん。一度は二人で。いやなの? 私とじゃ、だめなの?」
いきなり来た。大きな瞳に涙が溢れてくる。ピアノの上に雫が落ちる。濡れた目で、僕を見つめる。
「あのさ」
彼女の涙に抗える男子はいない。
僕を除いて。
僕は知っている。彼女は女優のように「スタート」の合図で、涙を流すことができるのだ。
「私、みゆきさんの『化粧』とか『ファイト』の歌詞を思えば、いつでも泣ける」
この涙に、多くの同級生や先輩がだまされてきた。近くでそれを見てきたのは、僕だ。
「まじめな話。ストリートって言われても」
涙に抗う。勇気を出した言った。
突然、スタジオの防音仕様の重い扉が開いた。
「まつり、ヒカル君が来てるの?」
彼女のママが入って来た。ステージ衣装のようなブルーのドレス。これが普段着なのだ。泣いているまつりを見る。
「あら、どうしたの」
まつりが顔を手で覆っている。ママが非難の目を、僕に向けた。
「なに、ヒカル君、まつりを泣かせたの?」
「えー、いや、そんなつもりは」
「お願いよ。まつりはヒカル君が、そばにいれば大丈夫って。いつも言ってるの。だから、娘を泣かせるようなことしないでね」
「はあ」
「二人は運命共同体なのよ」
いやいや。お母さんがそんなこと言うと、すごく重い意味になります。
まつりが舌を出した。僕は見逃さなかった。
「まつり、高校生の男女が、密室で二人になってはいけません。ドアを開けておくか、モニターカメラをオンにしておきなさい」
「はい、ごめんなさい」
「ワインなら付き合うわよ」
まつりママが僕に言った。
「あ、いや、とんでもないです」
高校生ですよ、僕。
まつりママは「じゃあ」と手を振り、ドレスの皺を気にしながら出て行く。扉は閉めていった。
「えっと」
僕が言うと、まつりが「えへへ」と笑った。
「まず、確かめておきたいんだけど」
「うん、何かな、ヒカルくん」
「この部屋の会話って、モニターできる?」
「そうだよ。お弟子さんのレッスンを、ママが部屋で聴けるようになってる。最初はマイクだけだったけど、後でカメラも追加した」
「そうなんだ……」
「そう。だからね。ヒカルがここでエッチな動画を見て、なんかゴソゴソやってたら」
「しないよ。そんなこと」
「ヒカル。一度聞こうと思ってたんだ。そんなことしないの?」
「し、しないよ」
「うそ。エッチな動画、見ない? DVDとか持ってないの?」
「見ないし、持ってない」
「えー、そうなんだ。あ、まさか」
「まさか、なんだよ」
「まさか、私で、ゴソゴソしたり」
「まつり、いいかげんにしなよ。てか、これ、ママが聞いてるよね」
「あ、そだね、あはは」
まったくこの母子は。呆れたけれど、すでに彼女のペースですべてが進んでいた。
彼女と路上ライブ、やろう。僕は決めていた。楽しいかも知れない。
何と言っても、五月女まつりは学園のアイドルなのだ。作戦に乗った。
ただ、来週は期末テストだ。勉強しないといけない。僕の場合、中間テストの結果が悪かったので、ヤバい。
練習のスケジュールを決めて、家に帰った。