「だめか」
思わず言っていた。どうするか。
「ご飯だよ」
母さんの声。歌詞を考えたままダイニングに行く。
父さんは仕事。今ごろは、店で音楽談義だろう。
九州の祖父のことを思った。プロだった時期、どんな曲を書いたのだろう。その才能が、僕に遺伝していることを祈った。
妹が「お母さん、とんかつおいしい」と言っている。僕も「うんうん」と言ったが、あまり味はわからなかった。早く自分の部屋に戻りたかった。
「ごちそうさま。やることあるから」
母と妹が顔を見合わせた。
ノートの新しいページを開く。目を閉じて考えた。
中学でまつりに出会った。
僕の前で仁王立ち。「中島みゆきさんが神」と言った。軽音部に入ろうと誘い、五年後、僕を部長にした。
今、路上ライブという新しい景色を、見せようとしている。そのためにも、歌詞を書けと言っている。
まつりがいなかったら。想像してみる。
僕なんて、ただの音楽好きの高校生で、もうすぐ大学入試だなあ、とか言いながら、スナック菓子でも食べてるのだろう。のんきな顔をして。
平凡だ。もともと平凡すぎるくらい平凡なんだ、僕は。
みゆきも拓郎も、泉谷も陽水も、どんな気持ちで曲を作るのだろう。
お菓子をつまみながら、なんてありえない。
抑圧、哀しみ、孤独。自分の感情と闘って、ことばと音をひねり出すのだ。
ぬるくて甘い僕に、書けるわけがない。
「それでも」と呟いた。
それでも、新しい一歩なんだ。記念の一曲。書かなきゃ。まつりと二人のチャレンジだ。
考えろ。集中しろ。
最初の一行。気恥ずかしいフレーズだ。
開き直るしかない。
恥ずかしくてもいい。冷やかされてもいい。素直に書こう。やっとシャーペンが動き始めた。時間を忘れる。書いたり消したりを繰り返した。
夜が明けた。パソコンで清書しプリントアウトした。もう一度、読み返した。
ストレートすぎる。頭を振った。その考えを追い出す。これ以上どうしろと言うのだ。ダメ出しされたら、また考えよう。そのときはそのときだ。
とにかく、少し眠ろうと思った。徹夜明けの僕を見られたくない。明日、いや今日も、まつりに会うのだ。
目が覚めた。
時計を見た。七時五十分。寝過ごした。飛び起きる。
終業式前日。授業はないが、市内の施設でスケート教室が実施される。授業三時間分だぞ。体育教師が言っていた。やばい、やばい。休むわけにはいかない。
急いで制服に着替えた。ジャージをバッグに突っ込む。部屋を飛び出すと、妹と出くわした。まだパジャマのままだ。
「え、お前、遅れるぞ」
「いいの。親子面談で十一時に行くの、お母さんと。てか、お兄ちゃんは今日、何」
「スケート教室。お前、気を利かせて起こしてくれよ」
「高校生の予定まで知らないよ」
話してる時間が惜しい。「ヒカル、朝ごはんは」という声に、「ごめーん」と返して家を出る。
タクシー通学は禁じられているが、大通りでタクシーに乗った。スケートリンクまで、千五百円くらいか。痛いけど仕方がない。
直接乗り付けると目立ちすぎる。二百メートルほど手前で降ろしてもらった。そこから走り出す。わざとらしく全力疾走。気持ちは伝わるかも知れない。
クラスごとの整列が終わっていた。出席を取っている。なんとか列に入った。冬だというのに暑い。担任が「田辺、大目に見とくけどな」と言った。
呼吸はまだ荒かったが、スケート教室が始まれば気楽だった。授業とは言え、自由に滑っていればよかったのだ。そもそも体育の先生が、壁につかまって動こうとしない。
僕はリンクの真ん中で、クラスメイトの立花君と雑談をしていた。外側を周回するものが多く、中央付近は空いていた。
後方でシャーという音がした。エッジを効かせて止まる。まつり。
「こら、五月女。そんなにスピード出すな。人が大勢いるんだ。危ないぞ」
体育教師の権堂が壁際で叫ぶ。手すりのあるところから離れない。
まつりが「ごめんなさーい」と叫び返した。権堂が「おー」と言う。
なんだ「おー」って。完全にまつり大好きだろ。立花君が苦笑している。
「立花くん、おはよ」
まつり、満面の笑顔。立花君は勘がいい。
「おはよう。あ、クラブの話だね。どうぞ、してして。俺、自販機コーナーに行ってくる」
立花君が滑走していく。
「立花くーん、ごめんね」
まつりが声をかける。立花君は気がいい。まつりの声に振り返ったとき、転びそうになったが、なんとか耐えた。
「わー、危なかったね」
まつりが言う。いや、君のせいだよ。
「まつり、スケート、うまいんだ。知らなかった」
「小学四年生までフィギュアやってたの。やめちゃったけど」
「何でもできるんだね、君は」
そんなこと知らなかった。知らなかったのが悔しかった。こんな気持ちは初めてだ。歌詞を書いたことと関係があるのか。
僕の口調に気付いて、まつりが言った。
「え、なに? どうかした」
「何でもないよ」
一秒か二秒。沈黙。気持ちを探る時間。
いつもの調子に戻って、まつりが言う。
「今日、遅かったね。欠席かと思った。心配した」
「ぎりぎり、セーフだったよ」
「歌詞、考えてたの?」
「そりゃ」
彼女が小さく手を叩く。
「早く見たい」
自信はないが全力で書いた。見てほしいと思う。