「わかった」
まつりが前を見る。
「勇気が出た」
キーボードの前に行く。
「時間通り、始めよう。ヒカル」
僕は頷いた。正午にスタートの予定だ。五分前。
クラブの仲間。少し離れたところに集まっている。手を振ってくれた。
もっちーがペットボトルを持ってきた。
「大熊君がホットのお茶がいいって」
なんだ、あの野郎。ふたり、いい雰囲気だ。
思ったが口に出す余裕はない。時間だ。
まつりを見る。彼女が小さく頷く。唇が固く結ばれている。表情が固い。
おそらく僕の表情も強ばっている。仕方がない。初めての経験なのだ。
一曲目は、まつりのソロだ。Dセブン・サス・4で始まる。
彼女が二回、キーボードを叩いた。スピーカーがいい音を鳴らす。五月女家の機材、さすがだ。
僕も同じコードを弾く。まつりが僕を見て微笑む。リラックスしたようだ。
僕はまだ緊張している。
「みなさん、こんにちは。初めまして」
まつりの声が広場に響く。
「ヒカルとまつりでーす」
大熊が笑い、もっちーが手を叩く。
「寒い中、ありがとうございまーす。私たちの演奏、聴いていってください。一曲目です」
前奏が始まる。クラブで演奏した「糸」。
まつりのソロだ。歌に入る。出だし、声がかすれたが、すぐに持ち直した。
立ち止まる人が現れた。年配の男性が目立つ。まつりが目を引く。
歌い終わり、最後の音が消えていく。拍手が起こった。
一番前で、強く手を叩いている中年男性がいる。紺色のコートを着て、ビジネスバッグを足もとに置いている。仕事の途中なのだろう。
二曲目は僕が歌う。前に出た。いつもと違う景色に戸惑う。
中年男は「なんだ、お前が歌うのか」と言いたげだ。まつりばかり見ている。特に脚。
頭に血が昇る。緊張感。体が固まり、最初の音を出せない。声も出なかった。寒さのせいではない。
妙な沈黙が続く。実際は数秒間だったかも知れないが、僕は永遠に動けないような気がした。
大熊の顔が見えた。「どうしたんだ、おい」と思っているのだろう。誰かの咳払い。その時だった。
まつりが前奏を弾いた。もともとは、僕のギターで始めるはずだった。全く予定外。完全なアドリブだ。装飾音まで入っている。
四小節めで冷静になった。気持ちを立て直す。八小節目でギター、イン。
吉田拓郎の「落陽」。
歌い出し。音程は取れた。
選曲が気に入ったのか、中年男が僕を見た。小さく首を振っている。まつりは、
練習したアレンジに戻った。コードをなぞっていく。
二番を歌い終わり、間奏。
オリジナルは延々とギターソロが入るが、僕たちの場合は十六小節。まつりが鍵盤を叩く。派手ではないが海に沈む夕陽を思わせる旋律。
終わって、三番。クライマックスへ。中年男は、体でリズムを取っている。
「陽が沈んでいく」
最後のフレーズを歌い終わり、後奏をストロークで決めて、頭を下げた。
拍手をもらえた。中年男が頷いていた。嬉しかった。
三曲目は、まつり、四曲目は僕。交代でソロをとる。身内のクラブ員と合わせると、満足できる数の観客が集まっていた。まつりへの拍手が多い気がするが、それは仕方がない。
僕が「舞姫」を歌い終えた。いよいよだ。
「最後の曲になりました」
まつりが言う。
「私たちのオリジナルです。ここにいるヒカル君が歌詞を書きました。愛に溢れた曲です。ぜひ、聴いてください」
少し間を置いて、タイトルを告げる。
「『五年の気持ち』」
後輩たちがざわつく。
まつりが僕を見た。小さく頷く。僕は親指で六弦をはじく。
Aマイナーのアルペジオ。移行してEマイナー、F、Cと続く。
まつりのキーボードが被さってくる。間もなく歌い出し。僕からだ。
「あの日、春の一日」